神崎流について

神崎流について

 

 神崎流は日本舞踊の中でも舞の流派です。

 また、舞の流儀の中でも地唄の伴奏による舞のみを上演し続けております。

 地唄舞という古格な芸の伝承を重んじる中に有って、神崎流は型に入って型にとらわれず、生成発展してきております。

 優艶な趣のある格調高い舞を、舞踊の追求をゆるがせにしない初代から二世が築き上げ、三世がそれをさらに磨き上げ、新しい舞の創造にも取り組んで参りました。

 今では「東京の地唄舞」としてすっかり定着しております。

 流儀の先達たちがこれ迄に培ってきたものを受け継ぎながら、今の時代の人々の心に触れ、心にひびく舞を創造して参りたいと思っております。

 そして今、舞を通して日々の暮らしの中でも、己の心と対峙する余裕を。

・1935年、大阪北陽(北新地)の舞の名手佐藤えんが七代目坂東三津五郎等の勧めにより、初代神崎流家元 神崎恵舞(えむ)を名乗り創流。
・二世家元神崎ひで、三世家元神崎秀珠を経て1999年、四世家元を神崎えんが襲名。(1981年より「えんの会」として毎年リサイタルを開催) 
・1951年より神崎流地唄舞研究会を毎年主催。その他各種公演、講演会、ワークショップ等も随時開催中。

 
 

地唄舞とは・・・

 

 「舞踊」と一言で表しても舞と踊りには実はそれぞれ異なる意味があります。

 舞と踊りはどう違うのか?舞は旋回、踊りは跳躍、と辞書にもある言葉を借りてご説明いたしましょう。

 舞ーまう、という動詞は廻ることを意味しており、この「廻る」という動きで髪が舞い手のからだに憑依する(降りて来る)ところに舞の本来の起源があり、摺り足でゆったりと、あるいは急速に裾をひるがえして、舞台の空間をめぐる、この動きを舞と云います。

 能(舞、仕舞)は、室町時代に京・大和・近江などの近畿地方で、また上方舞も江戸時代に上方(京、大阪)を中心に発展したものです。そして、地唄で舞う舞を「地唄舞」と言います。

 踊ーおどる、という動詞は跳躍という言葉にも表れるように、それが意味する動きは舞と異なり限定されず自由なものです。

 慶長年間出雲のお国が四条河原で始めた歌舞伎踊りをその始まりとし、江戸歌舞伎で発達、洗練されました。

 舞も踊も発生は上方であるのに、舞は上方で、そして踊は江戸で発達したために、舞踊のことを上方では舞、江戸では踊りとよび習わして来ました。

 舞踊と云う言葉は明治の造語で、それまでは概ね、西は舞、東は踊と呼んでいたようです。

 そして出発点は全く逆ですが、心と身体が一つになり身体をこえて心の自由さを求めている点では、舞も踊も変わりがなく、大事なのはその心のおきどころなのでしょう。

 
 

「地唄について」

 

 関西の盲人音楽家の間に伝承されてきた三味線音楽のジャンルが地歌と総称されるものです。

 歌舞伎や人形浄瑠璃等の劇場音楽とは異なり、地歌では、演奏者は一人で三味線(地歌では三絃とも呼ばれます)を弾きながら揺います。

 演奏される場が室内でしたので、大きな声量や音量を要求されませんが、その代わり、複雑な音を動かしていく技能が必要でした。

 劇場用式である長唄(とくに大薩摩節)や義太夫節が、それぞれのジャンルに固有で、名前を与えられている旋律パターンの組み合わせに大きく依存しているの対して、地歌の専門はこうした作り方の代表的な作品例が「雪」であり「黒髪」です。

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